星月の井


鎌倉駅より江ノ電に乗り長谷駅にて下車します、長谷駅の前の道を海岸の方に進むと三叉路に突き当たります。 この交差点を右に曲がり極楽寺坂方面に向かうと、右に「面掛行列」の祭りで有名な御霊神社(ごりょうじんじゃ)またの名を鎌倉権五郎神社(かまくらごんごろうじんじゃ)があります。 更に道を西に進むと、極楽寺切通ののぼり口に虚空蔵堂(こくうぞうどう)が一段と高いところに鎮座しています。 そのお堂の手前の道の脇に井戸があります。この井戸が「星月夜の井」(ほしずきよるのい)または「星の井」あるいは「星月の井」とも云われている鎌倉十井の一でます。 星月夜の井 新編鎌倉志に次のように述べています。 「昔はこの井戸の中に、昼でも星の影が見えたのでこの名が付けられた。 ある日、近所の人が誤って包丁を井戸の中に落としたので、このとき以来星影が見えなくなりました。」

星月夜は昔は地名であったとの説があります。北国紀行(ほっこくきこう)によると「極楽寺に到る途中に、 大変に暗い山道に星月夜と云う所があり、昔はこの道に星月堂がありました。 古僧の言うには歌に「今もなを星月夜こそのこるらめ、寺なきたにの、闇の燈」とある。 星御堂と云は、この虚空蔵堂の事であると言はれています。今按ずるに、この谷の名を星月夜と云う。 あながち井の名にあらず。」と昔からの地名であると述べてます。

新編相模国風土記稿によると「慶長5年6月に。 徳川家康が京都からの帰り道に鎌倉に立ち寄り、 その際に星月夜の井戸を見物してから雪の下に到着したとの記録があるので、 昔から星月夜の井と言われたであろう。」と書かれています。

昭和初期ごろまでは、ここの井戸で水が売られていたそうです。 また、鎌倉市立第一小学校の校章は月に星が使われています。

虚空臓堂

星の井の左の山の途中にありる寺は、明鏡山圓満院星井寺と星井の文字を含んでいます。 寺の縁起によりますと 極楽寺切通 「天平時代に行基大僧正によって、鎌倉十井の一つである星の井戸との因縁により建立されました。 ご本尊は虚空蔵菩薩が祭られております。
その後数百年を経て源頼朝公もこの菩薩を崇敬し、ご本尊虚空蔵菩薩像を秘仏として三十五年に一度だけ開帳し衆生にそのお姿を拝することが出来るとされております。」


極楽寺切通

極楽寺切通(ごくらくじきりとおし)は鎌倉七口の一です。極楽寺を開いた僧忍性が切り開いたと言われています。
鎌倉攬勝考に、この道筋は京都と鎌倉の往来の道である。義経が鎌倉入りを果たさずに腰越に留め置かれたとあります。 古くからこの道が使用されていました。

新田義貞が鎌倉攻めにおいて、この地で幕府軍と壮絶な戦を行いました。 太平記の巻第十「鎌倉合戦」で新田義貞の軍勢がこの切通より攻めいるが敗れたとの伝えられている切通はこの道です。




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