泉の井


鎌倉駅西口から市役所方面に進むと、信号のある交差点に到達します。 泉の井 この信号を右に曲がり、昔は「今小路(いまこうじ)」とよばれていた道を、 横須賀線の線路に沿って扇ガ谷方面に進みます。
「今小路」にいては、新編鎌倉志で「今小路は、寿福寺前の勝の橋より南を称す」と書いてあります。 この今小路を北に進むと、この文章通りに「勝の橋」(かつのはし)と「寿福寺」(じゅふくじ)の前に出ます。

現在は、この付近は「扇ガ谷」(おうぎがやつ)と呼ばれていますが、 往時は「亀ケ谷」(かめがやつ)と呼ばれ、源頼朝が鎌倉に入る前から源氏と深い関係がある土地でした。 寿福寺の建っているこの付近は、頼朝の父親義朝が館を構えていたところでした。

頼朝が鎌倉に入った治承4年(1180)10月7日、頼朝は先ず鶴岡八幡宮(材木座一丁目にある現在の元八幡宮)に参拝し、 次に亀ケ谷の義朝の館跡を訪れました。頼朝はこの地に屋敷を建てることが目的でした。 然し、土地が狭い事と岡崎平四郎が義朝の供養のために小庵を建てていましたので、 計画を変えて今の大倉に変更したと吾妻鏡に述ています。
寿福寺の北隣は元大田道灌の屋敷跡で、現在は鎌倉で唯一の尼寺の「英勝寺」(えいしょうじ)があります。 英勝寺の先の小さな矢倉の中には、十六夜日記を書いた阿仏尼(あぶつに)の供養等があります。 さらに進むと、この道と交差する道があります。 この道は、左に行くと「化粧坂」(けわいざか)への入口から「海蔵寺」(かいぞうじ)へ通じています。 右に行くと「薬王寺」から国指定史跡の「亀ケ谷坂」(かめがやつざか)方面及び「泉ケ谷」(いずみがやつ)方面に通じる道です。
岩舟地蔵堂
この道を右に曲がり横須賀線の跨道橋の下を抜けると、 頼朝の長女大姫(おおひめ)に縁があるとあると云われる「岩船地蔵」(いわふねじぞう)があります。 岩舟地蔵の角を左へ行くと薬王寺を通って亀ケ谷坂方面へと通じています。 今回は道を曲がらずに真直ぐに扇川に沿って進み、八百屋の角を左に曲がり泉ケ谷方面に進みます。 暫く行くと左に浄光明寺(じょうこうみょうじ)があります、さらに進むと左の道端に小さな井戸があります。 この井戸が「泉の井」(いずみのい)で鎌倉十井の一つです。

新編鎌倉志に、「泉谷(いずみがやつ)は、英勝寺の東北の谷なり。 (吾妻鏡)の建長4年(1252)5月26日、右兵衛督教定朝臣が泉谷の亭を壊して、御方達の本所とすとあり。 是宗尊将軍(むねたかしょうぐん)の時也。御亭の跡、今所不知。路端に井あり。泉井と云う。清水涌出なり。 鎌倉十井の一なり。」と述べています。

泉ケ谷

鎌倉には昔から多くの谷があります。鎌倉では、これらの谷のことを「やつ」或いは「やと」と呼んでいます。 泉ケ谷もその一つです。郷土誌「鎌倉」54号の「鎌倉地名考(三浦勝男著)」に、 「泉ケ谷は、現在の扇ガ谷二丁目、浄光明寺のある谷で、門前の東北方、泉の井や巨福呂坂へ通じる谷間をいう。 徳川光圀の「鎌倉日記」に「泉ケ谷 英勝寺の東北、二三町ばかり行処の総名なり。 扇の井・藤ケ谷など皆泉谷の内なり云々」、次に「谷名の由来は未詳だが、後世では鎌倉十井の一つ「泉の井」があるのによるという。 清水が湧出していたことにちなむのであろう。
鎌倉国宝館発行の「鎌倉の古絵図U」の扇ガ谷村絵図を見ますと「いずみの井」の位置が明記されています。 三浦氏の説明も「藤谷は泉谷の北西隣に図示し、泉谷の中には多宝寺谷・清水寺谷の、支谷ともいうべき二つの谷名が認められる。」 とあります。

浄光明寺

浄光明時は泉ケ谷にあります。泉谷と号し真言宗です。 創建は建長3年(1251)で開基は武蔵守北条長時(幕府6代の執権)、開山は真阿和尚(勅謚真聖国師)です。
元弘3年(1333)には後醍醐天皇の勅願所としての地位を獲得する一方、華厳、天台、三論、 法相の4箇の勧学院を建立し、学問所の道場としての基礎を築いています。
浄光明寺
第4世智庵和尚に対する足利尊氏、直義兄弟の帰依も厚く、尊氏による寺領寄進、 直義による仏舎利の寄進等が行われました。
室町時代に入っても鎌倉御所の祈願所として、足利基氏、足利氏満の分骨を納め、 代々の鎌倉公方から寺領安堵を受け寺勢大いに振るっていた。
お堂の配置は、山門を入って右に不動堂、左に客殿、庫裏、石段を上って正面に本堂、 その左に収蔵庫(重要文化財阿弥陀三尊像・県文矢捨地蔵菩薩像安置)、その奥が観音堂です。
本堂背後の山上に冷泉為相墓の宝筐印塔があります。為相は藤原定家の孫で、 父為相の死後遺領細川庄の相続について異母兄為氏と争い、 その訴訟のために関東に下向した母阿仏尼の後をしたって鎌倉にくだり、藤ケ谷に住み、 鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。



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