瓶の井


「瓶の井」(つるべのい)を訪ねるには、JR北鎌倉駅にて下車し、 円覚寺側の小さな改札口を出てから横須賀線に沿って鎌倉方面に進むと小さな川があります。 橋を渡つて左に曲がり小川に沿って進むと、正面に名月院の入口が見えてきます。 瓶の井
総門を通り参道に進みますと、鎌倉石の由緒ある石段があります。 この石段を登ると正面に山門があり、山門の先の正面には本堂の名月院があります。
本堂の左奥の石段の先に宗猷堂(そうゆうどう)があり、 開山の蜜室守巌(みつしゅつしゅごん)の木像を安置しています。

宗猷堂の手前右手にある東屋風の屋根の下に、 鎌倉十井の一つ「瓶の井」(つるべのい)またの名を「甕の井」(かめのい)と呼ばる井戸があります。 鎌倉十井の一でです。

傍らにある木製の掲示板に「瓶の井 鎌倉十井の一つ。岩盤を垂直に掘り貫いて作ったと見られ、 その内部が水瓶のようにふくらみがあることから「瓶の井」(つるべのい)とよばれた、 鎌倉十井の中でもいまなお使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である。 年代は江戸時代と伝えられる。」と書いてあります。

名月院

名月院(めいげついん)は、 今から八百四十数年前の永暦元年(1160)に山内経俊(やまのうちつねとし)により創建されました。 宗猷堂 その後、康元元年(1256)に第五代執権北条時頼がこの地に最明寺(さいみょうじ)を建立しましたが、 時頼が亡くなりますと次第に廃れてゆきました。

時頼の長男第八代執権北条時宗が、文永5年(1268)に禅興寺(ぜんこうじ)として復興しました。 開基は北条時宗、開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)にて建立されました。 塔頭(たっちゅう)として名月庵も設けられましたが、、その後は次第に荒廃してゆきました。

室町時代になり、禅興寺の塔頭の名月庵を室町幕府の関東管領の上杉憲方(うえすぎのりかた)が名月院として復活しました。 開山は密室守厳(みつしゅつしゅごん)開基は上杉憲方でした。
このように名月院は、北条時頼の最明寺から始まり、北条時宗の禅興寺となり、 その塔頭の名月庵が室町時代の関東管領上杉憲方により名月院として臨済宗建長寺派として現在まで続いており、 境内には歴代の墓所が残っています。


名月院やぐら(羅漢洞)

宗猷堂の左の山裾に名月院やぐら(羅漢洞)があります。 名月院やぐら 「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓であります。数箇所あるやぐらの内、 羅漢洞は間口7m、奥行6m高さ3mで鎌倉市内最大級です。
壁面中央には釈迦如来・多宝如来の2仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし中央に名月院中興開基の上杉憲方をまつる宝篋印塔、 その前には禅宗様式を表した香炉が安置されています。
このやぐらは、永暦元年(1160)平治の乱にて戦死したこの地の豪族、 山内俊道の菩提供養の為に,子供の山内経俊によって造られたと伝えられ、 その約220年後に上杉憲方が生前に墓塔を建立したとの事。

時頼墓所

総門を入り左の参堂を進むと、道の突き当たり左に北条時頼の墓所があります。 時頼墓所
この付近は時頼が創建した最明寺の縁の地でありました。時頼は安貞元年(1227)に生まれ、 寛元4年(1246)に19歳にて第五代執権職に就任し、弘長3年(1263)に亡くなりました。




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